アルトリアが公園のベンチから立ち上がったのは、それからしばらく後のこと。
 すでに夕陽がほとんど消え、空は赤黒くなってからのことだった。
 本来ならばバスに乗って帰るのだが、今日はなんとなくそんな気分になれない。それが重い気分のせいなのか、それとも未練がましく衛宮邸から去る時間を遅らせようという気持ちからなのかは、彼女にもわからなかった。
 足を引きずるようにゆっくりと新都のマンションへ帰る。家に着いたときは七時を回っていた。
 手の中の鞄を机の上に置こうとし、


 ちゃ〜らり〜らりら〜りら〜ん♪


 物音ひとつなかった部屋の中で、突然響く電子音。不意打ちで鳴らされた音にアルトリアは驚いてつい身を竦ませた。
 けれどすぐそれが何の音であるか理解する。今のは凛が面白がって決めた音だ。もちろん操作はできないので、そのとき傍にいた綾子にやらせたものであるが。
 ゴソゴソとカバンの中に手を突っ込み、水色の携帯電話を取り出す。

「はい、もしもし」
『あ、アルトリアちゃん? もしもーし! 藤村センセーでーっす!』

 通話ボタンを押すと、陽気な声が響き渡る。いきなりやってきた声だけの訪問者にアルトリアは面食らった。

「どうかしましたか? 突然電話などかけてきて……」
『だってアルトリアちゃん、用事があるからって晩ご飯食べないで帰っちゃったじゃない? だから連絡入れるの忘れちゃって』
「連絡?」
『うん。明日の放課後、文化祭の舞台の打ち合わせがしたいんだけど。いい?』

 もちろん彼女に異論はない。弓道部の舞台のことはてっきり、旧部長の綾子と現部長の桜に一任したものと思っていたが、やはり顧問として何かしら参加したいところがあるのだろう、とアルトリアは少し感心した。

「わかりました。明日の放課後ですね」
『うん。授業が終わったら第一理科準備室に来てねー。あ、化学の金田先生には許可取ってあるから』
「第一理科準備室?」

 首をかしげた。なぜわざわざそんなところでやるのか。
 彼女の疑問が伝わったか、あるいは予想済みだったのだろう。

『弓道場は遅くまでみんな練習してるから使いにくいし。よその人の前で演し物のこと話しづらいでしょ? だから』
「ああ、なるほど。関係者以外には内密にしたい話なのですね」
『うん、そうそう。アルトリアちゃん、今週忙しくてなかなか捕まらないみたいだから、学校で話しちゃえーと思って』
「………………」
 言葉に詰まる。忙しい、のではない。彼女はあの家を避けているだけなのだから。

「……すみません」
『え、謝らなくてもいいのよ。でもまた時間見つけて、晩ご飯食べていってね。
 こないだ梨をいっぱいもらっちゃって、明日士郎んところに持ってこうかと思ってるの。アルトリアちゃんも一緒に食べるでしょ?』
 ん? と受話器の向こうで無邪気に問う大河の姿が目に見えるようだ。
 けれどアルトリアは、その期待に応えられない。

「……申し訳ありません。やはり……」
『――――そっか。
 うん、でもやっぱりまた来てね。アルトリアちゃんのこないだのおはぎの食べっぷり、すっごいしっかりしてたから。きっと梨もすぐなくなるし、去年みたいにわたしがたくさんみかんを買ってきても、アウトにならないと思うの』

 去年のみかん。そういえば彼女がセイバーとしてあの家にいた去年の冬、大河が大量にみかんを買ってきていて、士郎がノルマまでつけて片づけていたことがあったか。
 結局あれは一部を腐らせてしまったらしい。そのことに思い当たってちょっと笑みがもれる。

『あ、今笑わなかった?』
「い……いえ、なんでもありません。と、ともかく、明日の放課後、第一理科準備室ですね」
『そうそう。じゃあまた明日ねー!』

 がちゃん、と向こうで受話器を置いた音がする。そして部屋には再び静寂が戻った。
 ふう、と息を吐く。携帯電話をしまい、ひとまず着替えるため私服を出そうとした時。

「………………っ」

 部屋の隅のゴミ箱が目に入る。箱の中にはまだ新しい本が、無造作に開きかけた状態で捨てられている。
 いけない。あれがまだ残っていた。

「――――――――」

 それを見て、ふいに数日前のイリヤスフィールの声が思い出される。さきほど大河が言っていた、おはぎを皆で食べた晩のこと。
 なぜ自分をセイバーと呼ぶのかという問いに、銀色の少女はこう答えた。


 ――――わたしにとって、『セイバー』は『セイバー』だもの。


 あれはどういう意味だったのか。
 イリヤの言いたいことが、いまだにわからない。
 あの日。
 イリヤスフィールがその言葉を告げた数時間後、彼女はひとつの決断に至ったのだから。





☆★☆★☆★☆★☆





 ぼすっ


 衛宮邸から帰宅してすぐ、床のカーペットに勢いを殺さず置いたカバンは、くぐもった音をたてた。
 いつもの彼女ならばもっと丁寧に置くのだが、今はそこまで気遣いが回らない。
 続いてもっと重い音がしてベッドがきしむ。アルトリアは座り込んだベッドの壁際に背を預け、さっき本屋で買った本を開く。
 うす黄色の表紙に書かれたタイトルは『King Arthur』。
 かつて士郎に見られたため買うのを断念していたあの本だった。

「……………………」

 先程、衛宮邸で士郎に聞いた、なぜセイバーだと思うのかという質問。それに返された答えは無言。
 ならば自分なりに答えを見つけなければならない。

 英語で書かれたその本は、おそらく英語の教材用なのだろう。単純な単語でアーサー王伝説が易しく解説されている。
 かつてブリテンに存在し、いつか蘇る王。選定の剣を引き抜き、王として選ばれ。荒廃するブリテンを勝利に導き、しかし部下の離反や不義の息子の反乱で国は荒れ、そして滅びた。
 当然のことながら、アーサー王が女であったことも、聖杯を求めて千五百年後の世界へ行ったことも書かれていない。ところどころに挿まれた中世風な挿絵には、黒いひげをはやしたたくましい男のアーサー王が凛々しく立っていた。
 それでも読み進めるたびに、アルトリアの中ではひとつひとつ記憶が鮮明に蘇る。
 荒れ果てた国を救うため、王になろうと決めた。けれど王とはみんなを助けるため、一番多くみんなを殺す存在だ。そんなことは生まれた時から知っていて、夜中にそれを思うと恐くて震えが止まらなかった。
 だが国を助けられるのは王だけだ。ならばそのために剣を振るう。幼い少女は生涯変わらぬ誓いを立てていた。
 そしてあの日。選定の剣の前に立った彼女は、一人の魔術師に出会う。
 彼は言った。

『それを手にしたが最後、君は人間ではなくなるよ』

 王になれば、皆に恨まれ、惨たらしい最期を迎えると。魔術師は彼女の行く末を見せて、剣を抜くのを引き止める。
 それでも、得るものがあると信じた。

『――多くの人が笑っていました。それはきっと、間違いではないと思います』

 自分一人が人間であることを捨てれば、国は助かる。ならば何を躊躇うことがあるだろう。
 剣は岩から引き抜かれ、一人の少女は一人の王となった。
 公平無私な若き少年王。彼女に対する評価は常にそういうものだった。
 若く凛々しい、決して私情を挟まぬ優秀な王と尊敬する者もいれば、若輩のくせに剣に選ばれただけで王となり、まして人の心がわからぬ王と陰口をたたく者もいた。
 そんな騎士たちの不満を、彼女は常に結果で黙らせてきた。
 失われていた騎馬形式カラフラクティを再構成した彼女の軍は、文字通り自由に戦場を駆け抜け、異民族の歩兵を破り、幾つもの城壁を突破した。
 常に先陣に立ち、決して負けを知らず。約束された勝利の剣の名を汚すこともなく。
 平和のために皆を戦場に駆り立て、皆を助けるために少数の民を殺す。そんな矛盾も全ては国のため。そうして戦い抜くうちに、やがて少しずつ国は彼女の目指す平和へと近づいた。
 それでも、平定の裏で彼女の国は滅びへと向かう。わかっていたはずの自らの最期。けれど知らなかった国の末路。
 その荒廃した丘が無念で聖杯を求め、しかし王としての自分を誇るのならばやりなおしなどしてはいけない、と。
 あの日、二人で決めたのだ。士郎と、セイバーは。

「………………………………」

 その決意の記憶は。
 遠くで見る『アルトリア』にとっても、誇らしいものだった。
 今も思い出すことができる。

『――セイバー。聖杯を壊そう』

 張り詰めた、泣きそうな顔で宣言した士郎。
 一緒にいたい、と言ってくれた。この世界で幸せになって欲しい、と。
 そんな彼の望みを犠牲にして、それでもセイバーの誇りを守ろうとしてくれた。
 その顔を覚えている。その言葉を覚えている。その決意を覚えている。
 ――きっと、彼は最後まで迷っていたはずだ。最後の戦いの時、柳洞寺の門をくぐる前、振り向いた士郎の瞳はそう言っていた。おそらく、セイバーが同じ時まで迷っていたように。
 それでも、セイバーの誇りを守るため、自分の望みを押し殺してくれた。
 二人の願い、二人の誇り。それはセイバーが王として自らの人生を終えること。
 ブリテンを救えなかったことは、やはり無念だった。けれど王としての務めをたしかに果たせたと、遠い時代の彼へ胸を張れた、眠りにつく前の誇らしい気持ちさえ、まだこんなにはっきり覚えているというのに。
 なんという運命の悪戯だろう。今こうして彼の生きた時代に、『セイバー』の記憶を持って生まれてきてしまった『アルトリア』が存在するなんて。

「…………皮肉ですね。彼の望みが、こんな形で実現するとは」

 苦笑しか出てこない。こんな望み、叶ってはいけなかったのに。
 普通の、当たり前の少女として生まれてきた『アルトリア』。けれどそれは、士郎が守ろうとした『セイバー』の誇りと反するものだ。
 王としての誇りも、自覚も、背負ってきたものも。こうして普通の少女となってしまった『アルトリア』では持ち得ない。いくら過去の記憶があるとはいえ、十七年間普通の少女として生きてきたアルトリアでは、請け負うなどと言うのも滑稽だ。
 『アルトリア』と『セイバー』という二人の人間。
 容姿も名も同じ。記憶もほとんど戻っている。
 けれど身体は別物。当然能力もまったく違う。もうあの頃と同じ戦いをすることはできない。
 そして何より、王としての資格を、『アルトリア』は失っている。
 そう、この身はすでに王ではなく。いわばセイバーが王となるために岩の前へ置き去りにした少女の『アルトリア』に近い。

『置き去りにしてきた物の為にも、自分を曲げる事なんて、出来ない』

 士郎はそう言った。少女としてのアルトリアを置き去りにして、セイバーは王であることを選んだのだ。
 だから王は辞めない。選定の剣を抜く前には戻らない。自分の意志で選んだ道を、最期まで貫くのだと。
 士郎に宣言したセイバー。それを受け止めた士郎。
 だというのに、少女としての『セイバー』など、少なくとも彼の前に現れていい存在ではない。

「シロウ…………」

 大切な人の名を口にすると、胸がツキリと痛んだ。
 先日の雑木林での彼が思い出される。失った人の思い出を語る士郎の言葉。

 ――――いなくなっても、ずっと胸に残ってる。俺に目標をくれた親父と、目標へ走り続ける力をくれた俺の剣が。

 大切な、切嗣とセイバーの思い出を語る彼の瞳は。
 とても純粋で、晴れ晴れしく澄み切った、力強いものだった。

 ――――今の俺は、そんな二人がいてくれたから頑張れる。きっと目標に手が届くって信じられる。

 切嗣とセイバーの思い出があれば、未来へ向けて進んでゆける。士郎はそう断言した。
 まっすぐに、まっすぐに。
 彼の揺るぎない決意は、その瞳の中にはっきりと映っていた。不器用で融通がきかない、けれどあまりにも強く尊いその意志は――――

「………………………………」

 耐え切れず、アルトリアは枕に顔を押し付けた。
 ――――できない。
 あんなにもセイバーを、切嗣と同じぐらい憧憬している士郎の傍にいることは。
 今の士郎は、おそらくアルトリアとセイバーを同一視している。
 彼はきっと気づいていないのだろう。
 普通の少女としての『アルトリア』が、『セイバー』として傍にいること。
 それは、彼の中のセイバーを汚すことになる。
 士郎にとってのセイバーは、きっととても綺麗なものなのだ。
 恐れられ、裏切られ、それでも決しておもてを伏せなかったアーサー王。最後まで戦い抜き、誇りを守った気高き英雄。誰もが目を奪われるその眩き姿。それがきっと、士郎にとってのセイバーのイメージだ。
 セイバーの持つ輝き。それは英雄の持つ人生そのものの輝きで。
 決して、一介の少女が持ちうるものでは――ない。

「……ならば、私にできることは……」

 『セイバー』には戻れない。あの力も、王の資格も、今さら取り戻せるものではない。
 もはや『アルトリア』は、『セイバー』とは別の人間なのだ。
 ならば。
 もしも――もしも、士郎が『アルトリア』を、セイバーとして見るようならば。
 そのときは、きちんと離別をせねばならない。自分はセイバーではないのだと示して。
 それが、彼女が『セイバー』として。その”残骸”として、唯一できる、最初で最後の事。
 衛宮士郎の中で、今も王として強く凛々しい『セイバー』を、守るということ。

「……………………」

 心は、決まった。
 士郎の理想を守りたいと思うなら、あのとき選んだものを壊したくないのなら。
 この結論は当然の帰結なのだ。
 だから。
 今、瞳の奥が灼けるように熱くて、視界が歪んでしまうのも、全て気のせいに決まってる。

「……顔でも洗って来よう」

 声が震えているのは、気づかなかったふりをした。
 洗面所へ行くために立ち上がる。
 持っていた本は、部屋の隅のゴミ箱に捨てた。




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