どこか遠いところから、子供に帰宅を促す音楽が聞こえてくる。
 けれどこの校舎という隔絶された空間の中では、その曲を本来の意味で聞き届ける者はいない。五時になったらおうちに帰りましょう、などと言われて従うほどの年齢の子供は、この校内にはいないのだ。
 ゆえにその音楽を単なる時報として聞き流しながら、アルトリアはぼんやりと、夕焼けの光差し込む理科準備室で人を待っていた。
 昨晩の藤村大河からの電話によると、今日ここで文化祭の舞台の話し合いをしたいという。フラスコやビーカー、おそらく化学教師が置いたであろう大量のプリントでどこか雑多なイメージのあるここで、きちんと話し合いができるか少々不安ではあったけれども、校内で完全な密室は探す方が難しい。内密の話があるのだろう、と納得した。
 遠くから聞こえてくるカラスの声。太陽が空から消え行くこの時間帯は、他に何があるわけでもないのになぜか物悲しい。
 そんなことを考えながら時を過ごすうち。

 ――――ガララッ

 扉の開く音。来たのか、と思い顔を向けると、そこには。
「っ、…………シロウ……」
「……………………」
 無愛想とよく言われる顔をさらに固くして。
 衛宮士郎その人が立っていた。
 彼女の動揺を意に介さず、士郎は部屋の中へと足を進める。
 彼の足取りを、アルトリアは無言で眺めていた。

「………………」

 考えてみれば無理もない話だ。士郎とてこの舞台に立つ一人なのだから。まして士郎は藤村大河に最も親しい生徒である。彼が同席するのは当然といえば当然だった。
 士郎は一歩一歩、しっかりと踏みしめるように歩いてくる。そしてアルトリアまであと三歩ほどのところでピタリと止まると、
「藤ねえなら、来ないぞ」
「え……?」
「悪いけど。藤ねえなら、来ない」
 来ない、とは、つまりここに来ない、ということだ。
 彼は急に都合の悪くなった教師のメッセンジャーとしてここにやってきたのだろうか。
 ――――いや。これだけ固い顔つきの、言い換えれば緊張した面持ちの士郎の用件が、それだけであるはずがない。つまりは。
「……謀りましたね、シロウ」
「だってこうでもしなきゃ、話聞いてくれないだろ」
 士郎は拗ねたそぶりで答える。たしかにこんな機会を作らないよう、アルトリアはあれ以来極力彼と接しないように努めてきた。
 だからこそアルトリアを騙して話し合いに持ち込むという強硬手段をとったのだろう。
「それはそうですが――まさか他の人まで巻き込んでこんな強引な手を用いるとは。よく協力を得られましたね」
「藤ねえもそれだけ心配してるんだ。なんでお前がうちで夕飯食べていかなくなっちまったのかって」
「…………そうでしたか。それは悪いことをした」
 ああ見えて藤村大河は鋭い感性を持っている。特に士郎に関しては、おそらく誰よりも感覚が長けているだろう。
 イリヤの話では士郎もこの件の心労でいつもと様子が違っているというし、あの人はもしかするとその原因まで薄々見破っているのかもしれない。
 だとしたら、いずれ大河にも謝らねば。
 そう反省して、アルトリアは目線を落とす。
 ――と、その視界に人の足が入る。
 顔を上げれば、士郎がさっきよりも近くにいた。

「…………っ!」

 とっさに踵を返して走り出そうとする。
 が、

「十分だけ!」

 いきなり腕を掴んで引き止められた。
「頼む。十分でいい。話を聞いてくれ」
 懇願する声はとても悲痛に響く。その、あまりにも必死な声を振り解けない。
 いつかも彼の想いを突き返せなかったことがあった。あれは彼に本気で求められた夜のことだ。

『俺はここで、セイバーと一緒にしたい』

 正面から言われたその言葉を、拒絶できなかった。
 気持ちと理性の真ん中で、自分をごまかして、建前をつけて。直接受け取ることはできなくとも、精一杯の範囲で肌を重ねた。
 ちょうどあの時のようだ。士郎の手を振り解くことなど、ちょっと力をこめれば簡単なはずなのに。アルトリアの腕には力が入らない。
 それは、士郎の心があの時と似ているからなのか。
 それとも、アルトリア自身、心のどこかで振り解くことを惜しいと思っていたのか。あるいはその両方だったのかもしれない。
「…………五分だけ、なら」
 ぽつりと呟くと、士郎の顔が安堵に緩む。と同時に、自分の手が彼女の腕を掴んだままだと気づいたようだ。急いで手を放した。
「わ、悪い。痛かったか?」
「いえ、そんなことは」
 言いながら、そっとその場所へ指を添える。痛くはなかった。けれど彼に握られたところが、信じられないほど熱かった。
 その熱さが胸まで上がってくる前に断ち切ろうと言葉を発する。
「それで、話というのは……」
「あっ、ああ――――」
 口ごもる士郎。自分から誘ってきたのに、士郎は話すことをためらっているようだった。
 しばし無言の時間が続く。
 アルトリアにとって、士郎と沈黙の時間を過ごすことは、そう珍しいことではなかった。剣舞の稽古の休憩時間や、夕飯をごちそうになってバス停まで送ってもらう時など、彼と二人きりの時間をいつも会話で埋め尽くしていたわけではない。
 そんな時間は、これまでならむしろ心地良いものだった。士郎の存在を隣に感じられることが嬉しかった。決して退屈などしていない。むしろその時間は好きだった。
 けれど今。あれほど心地良かった沈黙の時間が、痛いほど居たたまれないものとなってアルトリアにのしかかる。
 士郎の口からどんな言葉が出てくるのか。恐れと、不安と、後ろめたさがないまぜになった気持ちが、彼女の視線を士郎から逸らさせる。
 一方の士郎は、なかなか言葉を発しないものの、視線だけはじっと外さない。
 見つめる士郎と、目線だけ逃げるアルトリア。
 ――――そんなところも、あの夜のようで。
 そう思ったとき、自然と彼女の瞳は士郎へと向かっていた。
 まるでそれを待っていたみたいに。


「俺、やっぱりお前のこと、好きだ」


 曇りのない、強い強い瞳で。
 衛宮士郎はまっすぐに宣言した。
「………………」
 なぜか、じんわりと目にこみ上げてくるものがある。
 嬉しいとも悲しいとも言い切れない想い。ただ、この言葉を受け入れてはいけないという、強い義務感がアルトリアの口を動かした。
「……その言葉は言わないで欲しい、と」
「だって聞けるわけないだろ。
 たしかに俺はセイバーのことを忘れるなんてできない。最初に見たときも、それからも、今だってセイバーのことが頭をよぎる。
 でもな。今のお前を好きな気持ちは、まぎれもなく本物なんだ」
 偽りのない士郎の言葉は、真実彼の本心だろう。
 それはこんな時でも、彼女の心に深く響いた。
 けれど――――

「私は……私は、セイバーではありません」
「そうかもしれない。でもそうだとしても、俺は、お前を」
「――――五分経ちました。失礼します」

 士郎の言葉を遮り、今度こそ彼に背を向ける。
 やはり駄目だ。これ以上士郎の言葉を聞いていては決意が崩れる。
 だからこれ以上、士郎と話すことはできない。
「ちょ、まだ話が……!」
 呼び止める士郎の声も構わず、準備室のドアに手をかける。
 しかし次の瞬間、突然視界に腕が飛び込んできた。驚いてつい手が止まる。
 振り向かずともわかる。今、彼は後ろで息を飲んで、自分のこれからの動向をうかがっているのだと。
 アルトリアは士郎の腕で、背後からドアに押し付けられる格好となっていた。

「……シロウ」

 呼びかけると、ぴくん、と震える腕。彼も何かに怯えているのか。今、アルトリアが士郎の意志の強さに怯えているように。
 けれど負けられない。負けるわけにはいかない。
 それが士郎のためと信じればこそ。
 アルトリアは心を鉄にして、ゆっくりと振り向いた。
 間近まで迫った士郎の瞳は、何かの感情がいっぱいに満ちて、今にも溢れそう。それが何なのか気づく余裕はアルトリアにはない。その想いが溢れて取り乱さないよう必死に耐えているのがわかるだけだ。
 その瞳に屈さぬよう、アルトリアははっきり告げる。

「シロウ。貴方が私にセイバーを重ねることは間違っている」
「…………」
「今の私は、セイバーではなくアルトリアとして生きています。貴方にとって、あの聖杯戦争から一年と経っていないのでしょう。しかし私には『セイバー』ではなかった十七年間がある。今の両親に育てられ、学校に通い、友人と過ごしてきた年月が。
 今の私はアルトリアです。イギリス人のただの少女が、日本という国に留学して、当たり前のこととして日本人の先輩と会った。貴方と私の出会いはその程度のものでしかない」

 士郎がアルトリアの中に『セイバー』を見ているのは確かなことだった。彼女自身、今の自分の中に『セイバー』がいるのを否定しきれるものではない。あの頃と今を比べ、同じ部分もたしかにある。
 けれど『アルトリア』としての自分がいるのもまた、否定しようのない事実だった。
 十七年間の普通の少女としての暮らしは、『セイバー』の中にはない物。彼がアルトリアを『セイバー』として見るならば、いつかその齟齬に耐えられなくなるときが来る。
 そのとき、『アルトリア』のみならず、彼の思い出の中のセイバーまで壊れてしまうのは絶対に嫌だった。
 それは同時に、あのときの別れの選択が色褪せてしまうことを意味している。共にいたいという願いを切り捨ててまで選んだ別れを。
 だから『セイバー』であることを否定する。貴方の中のセイバーと、私は別の人間なのだと。士郎の中の『セイバー』を守るために。

 士郎はじっとアルトリアの言葉を受け止めている。さっきはただ必死だった彼の瞳の中に、わずかな別の感情が混じる。
 悲嘆と苛立ちが混じったような、彼女の言葉を否定する色。
 けれど彼の内心をさらに否定しようと、彼女は言葉を続けた。

「私と貴方の関係には、なんの繋がりもない。本来ならばそうであるべきなのです。
 貴方と『セイバー』が作り上げた関係は、今の私たちに持ち越すべきではない。
 人が生まれ変わるのは、やり直しのためなどではない。前の人生の後始末のために生きているわけではない。
 やり直しなんてできないと。貴方はわかっているのではないのですか」

 かつての士郎の言葉が胸に蘇る。
『そうだ。やりなおしなんか、できない』
 暗く湿った教会の地下。仲間とも呼べる子供たちの無惨な姿を目にし、その祈りを聞き、それでも士郎が出した結論。
 あの日へ戻りたい。それは士郎自身の祈りでもあったはずだ。
 けれど、彼は否定した。やり直すことは過去を踏みにじることなのだ、と。
 今や遠くなったあの言葉。けれど彼女は、今でもその言葉を覚えている。
 士郎の答えを聞いて、セイバーは前に進むことを決めたのだ。
 その、誇りを。
 セイバーが選び、士郎が支えてくれたその誇りを、なかったことにするなんてできない。
 決意の固さを声の固さに変え、アルトリアはしっかと士郎を正面から見つめ返す。
 彼女の拒絶に揺れている士郎の瞳を悲しいと思いながらも、さらなる言葉を口にした。

「本当は出会うべきではなかったのだ。貴方と、私が今を生きてゆくためには」
「だったらなんでっ……!」

 縋り付くような、喉の奥から絞り出される慟哭は、怒りか、悲しみか。
 まるで己の存在をかけて神の声を聞こうとする殉教者のように、士郎はアルトリアに疑問をぶつける。

「だったらなんで、俺に――俺たちに近づいた!?」

 泣きそうな声が、胸に痛い。
 激痛を叫ぶ心を押し殺し、アルトリアは冷静な声を作って、答えを返す。
 ……そんな事。

「決まっているでしょう」

 そうだ。決まっている。
 ――――好きだったから。
 彼の事が、好きだったから。
 きっと初めて会う前から。夢の中で見ていた時から。
 自分は、彼に惹かれていたのだろう。

『――置き去りにしてきた物の為にも、自分を曲げる事は――』

 強く言いきった少年。
 その意志の強さに。一心不乱な心根に。尊い魂に。
 ずっと、ずっと惹かれていた。
 だから、彼が本当にそういう人間なのか確かめたかった。過去を避けるより、彼という人間をもっと知りたいと思った。もっともっと知りたかった。過去の記憶と今の実物を合わせて、士郎のことを知れば知るほど、好きになっていった。
 かつての『セイバー』の想いと、古くから抱いていた『アルトリア』の憧れが重なるまで、時間はかからなかった。
 強い理想と、自らの危険を勘定に入れない危うさから目を離せなくなった。衛宮士郎という人間の傍にいて、彼を守りたかった。
 ――――ただそれだけ。とても簡単な、たったひとつの理由。
 でもそれを口にすれば、きっと彼はますます苦しむ。
 だから。

「……単なる好奇心でした。夢と現実に妙な符合が多すぎたため、確かめてみようと思っただけです。
 まさかこんな事になるなんて、思ってもみませんでしたが」

「――――――!」

 彼女の嘘を、士郎はそのまま信じ込んだのか。
 言いたいことがあるのに言葉を出せない。そんな目で少女を睨みつけながら、彼は強く強く奥歯を噛み締めている。ギリ、という音がここまで届いた。
 いけない。そんなに力を入れたら、奥歯が砕けてしまう。
 けれどそんな小さな心配すら、今の彼女には口に出す資格がない。
「…………。失礼します」
 声に感情が出ないよう、一生懸命つくろって。
 アルトリアはまず顔を背け、ついで体を士郎の腕からすり抜けさせた。そのまま理科準備室を後にする。
 士郎は動かない。否、動けないのか。
 すれ違いざまに見た横顔は、いつか夢で見た泣き顔。ただ頬をつたうものがないだけで。
 現実をどうにもできない自分の力不足に、腹を立て、自分自身に憤っている表情だった。


 ――――ああ。

「……約束ですから、文化祭までは稽古を続けます。
 ですがその後は早く、私の事を忘れて欲しい。それがきっと、どちらにとっても一番良い事なのです」

 自分が、彼を傷つけてしまっている。


 その事実が、こんなにも胸に痛い。
 ずっと、ずっと守りたかった人。とても大切な少年。
 だからどうか、早く忘れて欲しかった。
 そうすれば彼は。
 きっともう、傷つかなくて済むのだから。




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