「っっ!」

 気合の言葉は発されぬまま。一本の竹刀がまず右へ、それはフェイクだとでも言うように左へと宙を舞う。
 舞った竹刀を受け止める方もまた竹刀。互いの竹刀が中程でがっちりと噛み合う。
 接合したかと思えるほどぴたりとくっついた竹刀は、しかし一瞬の後にまた離れ、再び対峙した。
 ここしばらく毎日この場で流れ続けている音楽に乗り、竹刀を持った二人の男女は三度道場の床を蹴る。
 次は打ち込み。攻め手がひたすら大上段で右へ左へ斬りかかるのを、受け手が必死に受け止めるのだ。実際には二人とも熟知した動きであるが、そうと他人へ見せかけることを上達するための練習である。
「――――」
「っ、!」
 が、しかし。
 ブレた。
 いつもと同じスピード、同じ角度で繰り出された攻撃は、受け手の竹刀の角度が深すぎたため、竹刀を滑り上の方へと力を泳がされてしまう。
 一方の攻め手も、これは予想外だったのか。滑る自分の竹刀を止めることができず、結果――――


 べぎっ!


「あ痛!?」
「シロウ!」
 悲鳴をあげた赤毛の少年に、金髪の少女も慌てた声をあげる。
 アルトリアの竹刀はまったく勢いを殺さず、士郎の頭の側面に吸い込まれていった。








「いたたた……まいった。まさか攻撃されるとは思わなかった」
「攻撃したのではありません、不幸な事故です。そもそもシロウがきちんと受け止めないからこうなってしまったのではありませんか」
 ついグチをもらした士郎に、アルトリアも口をとがらせる。
 士郎は打たれたところに濡れたタオルをあてて冷やしながら、まあな、と言葉を濁した。
 思いもかけぬハプニングにより、練習は一時中断。今は二人並んで床に座し、臨時の休憩時間となっている。
 その間もアルトリアの説教は続いていた。
「まったく、今日のシロウはこれまでの稽古を生かしていません。先程からこれでは危ないと思っていましたが、やはりこうなってしまった」
 事実、この傷を負う前に何度もヒヤリとした場面はあったのだ。士郎の動きがいつもに比べ、早かったり踏み込みすぎたり、全体的に彼女との距離が近すぎたのが原因である。
 とはいえ、問題はそれだけではなく。
「いっそ今日の稽古はここまでにしておいた方がいいのかもしれませんね。下手をするとまた怪我をしてしまう。シロウ、今日は集中力を養うことが一番の練習です」
「……そうだな。でも……」
 不満そうな目で見つめてくる士郎。その視線に彼の言いたいことを悟り、言葉を呑み込んだ。
 たしかに今のは言い過ぎた。なにより人のことを言える立場でもない。
 アルトリアは反省して頭を下げる。
「――そうですね。私も改めねばなりません。集中力が欠けているのは私も同じでした」
 アルトリアの方は逆に、腰がひけていたりここぞというところで踏み込みが足りなかったり、全体的に消極的だった。それが原因で士郎がリズムを崩してしまったところもあるのだろう。さっきの一打も、もしアルトリアにきちんと集中力があれば、止めることもできたはずなのだ。
 内心自分の未熟さに呆れた。ようするに、昨日の理科準備室でのことがまだ尾を引いているのだ。士郎の傷ついた顔がフラッシュバックして、彼に近づくのを恐れている自分がいる。
 アルトリアは士郎の脇に置かれた竹刀と自分のものを揃えて持ち、音も立てずに立ち上がった。
「やはり今日の稽古はここまでにしましょう。このままではまったく身になりません。
 お互い、少し冷静になる必要があるようだ」
 特に、彼女には。
 こんな、相手の目もまともに見られないような状況下で、ちゃんと動けるはずがない。
 本番は近い。明日の学校でのリハーサルを経て、さらにその翌日にはもう皆の前でこの剣舞を披露するのだ。
 それまでにせめて、他人――士郎も含めて、彼女以外の誰にも、あるていど納得してもらえるぐらいの出来まで戻さなくては。せっかく剣舞を行う以上、できるだけ良いものにしたかった。

 もしかすると。
 これが、彼と一緒に作れる最後の思い出になるのかもしれないのだから。

「それでは。本日はこれで失礼します」
 頭を下げて礼をして、竹刀をいつもの壁際に立てかけて。
 そのまま無言で道場を出ようとしたとき。

「ひとつ聞いていいか」

 背後から士郎の声を聞き、つい足を止めてしまった。
「おまえ、無理してるだろ」
「っ、」
 士郎に見えないよう、きゅっと唇を噛む。
 士郎は勘づいていたのか。アルトリアが彼から距離を置こうとしているときの不自然さを。
 知られたくなかった。心優しい彼がそのことに気づけば、きっとまた士郎自身の重荷にしてしまうだろう。
 だから平静を装い、士郎の問いを否定する。
「……無理などしていません。私は、」
「いや、してる。なんのことだって聞かない時点で、無理の心当たりがあるってことなんだ」
「……………………」
 まんまと彼の誘導尋問に乗ってしまい、何も言い返せなくなった。
 振り向けないまま、言葉も出せないまま動けないアルトリアの後ろから、また士郎の声がする。さっきよりも少しだけ近い気がした。

「俺の気持ちがお前に負担かけてるのは知ってる。
 でも、セイバーじゃないからって理由で断られるのはどう考えてもおかしい。納得なんてできない。ちゃんとした理由が聞けるまで、引き下がってなんかやれない」
 士郎の口調は、彼の決意のように強い。
 また昨日のように彼の意志を振り解けなくなりそうで、アルトリアは背中を向けたまま、弱々しく呟いた。

「シロウ……これ以上私を困らせないで欲しい。貴方の気持ちは受け取れません。これだけは変わらない」
「じゃあちゃんと理由を言ってくれ。なんで俺のこと避けるんだ」
「…………」

 考える。なんと言い訳すればいいのだろう。昨日と同じく手酷い言葉で士郎をつっぱねてしまうという方法がアルトリアの頭をよぎった。
 ここで、嫌いだからと言ってしまえば。
 士郎は諦めてくれるだろうか。
 しかし、ならばどこが嫌いかと士郎が食い下がったとき、アルトリアは容易に答えを返せない。そもそも嘘をつくのは苦手な性分なのだ。
 なによりも、もう昨日のような彼の顔は見たくない。

 だったら。
 ちゃんと正直に話して、諦めてもらう。

 ぐっと拳を握りしめ、心が挫けぬよう気を引き締めて振り返る。士郎が少しだけ気圧されたようにたじろいだ。しかし彼もまたその場に踏み止まり、負けるまいと気力を振り絞る。
 ある意味でこれもまた戦いだった。互いの主張をぶつけ合う、互いの胆力が勝負の鍵を握る精神戦。
 二人は決して退けぬ自分の主張を通すため、改めて睨み合った。
 ――――相手を大切に思えばこそ、どちらも決して自分を曲げられない。

「前も言いました。私はセイバーではない」
「それは聞いた。でもそれじゃ理由になってない」
「いいえ。それが理由の全てです。貴方はセイバーとアルトリアを分けて考えることができない。それは二人を混同してしまっているということだ。
 セイバーは、あのカムランの丘で死んだ。王としての誇りを最期まで抱いて。それが貴方と『彼女』の選択だったのではないのですか」

 士郎は苦しそうに顔を歪める。彼の胸に湧き上がる思いは何なのか。セイバーへの慕情、その最期への哀惜、あるいはあの選択への迷いだったのかもしれない。
 セイバーの誇りは最期まで守られた。けれど結局、彼女が報われることはなかったのだ。そのことを悔やんでいるのかもしれない。
 それでもアルトリアは、あの時の選択が正しいものだと信じている。
 だからこそ彼女は、彼を傷つけてまで遠ざけようとしているのだ。

「私はシロウに今を生きて欲しい。貴方はこの時代に生きる人だ。過去の人間であるセイバーはもう終わったことなのです」
「……そうかもしれない。
 でも『セイバー』が終わったって、お前はこの時代に生きてるじゃないか」

 アルトリアは内心歯噛みした。
 どうしてわかってくれないのか。
 何度も言っているのに。自分はセイバーではない、と。
 どうして、彼はそれを。
 つい語調を荒くして、再度彼女は説得を試みる。

「それが間違いなのです。私はセイバーではなくアルトリアだ。
 今の私は騎士王でもサーヴァントでもありません。そのような目で見られても迷惑です。貴方が私をセイバーだと思って見ても、今の私はただの一人の少女にすぎない。これ以上、間違えたまま進まないでください」
「なんだよそれ。たしかに俺にはお前を『セイバー』と分けて見ることができてないけど、それで間違えてることなんて何もないだろ」

 士郎も負けじと張り合うように口調が喧嘩腰になってくる。アルトリアは小さく首を横に振った。
 もはや今の彼女は、あの頃の『セイバー』ではない。
 剣も握れず、王でもなく、守るべき国もない。彼の憧れたセイバーではないのだ。

 あの日、士郎が守ってくれたもの。取り戻した王の誇りを胸に抱き、セイバーは眠りについた。
 士郎の中の『セイバー』が彼にとっての指標であることができるよう、彼にとっての『セイバー』は王でなければならない。決して女の子などであってはならない。
 けれど、アルトリアはもう、あの頃の王には戻れない。
 だからアルトリアは『セイバー』であることを否定する。セイバーが女の子になってしまったのではなく。生まれ変わったことで、十七年間の真っ白な中で作り上げてきた『アルトリア』があることで、自分は『セイバー』ではないのだと主張する。士郎の中の『セイバー』が、女の子というイメージで汚されないよう。

 彼の愛してくれた、憧れてくれた『セイバー』が、英雄ではなく少女になってしまったことを目の当たりにしたら、士郎はきっとひどく落胆するだろう。そして後悔する。あの時、二人で守ろうとしたものはなんだったのかと。『セイバー』の王の誇りは、そんなに軽いものだったのかと。
 あの日の士郎の決意を守りたい一心で、アルトリアは『少女としてのセイバー』を、自分自身を否定した。

「貴方が私をセイバーとして見ることは、いつかシロウの誇りに傷をつける。貴方は『私』の誇りを取り戻してくれたくせに、『私』に貴方の誇りを傷つけろと言うのですか」
「なっ……そんなわけないだろ。お前の何が俺を傷つけるっていうんだよ。
 お前だって認めたじゃないか! 自分がセイバーの生まれ変わりなんだって!
 記憶があって、自覚があって、なのになんでセイバーとして見るななんて言うんだ!」
「だから何度も言っているでしょう! 私はもうセイバーではないのだと!」
「ああもうこのわからず屋っっ……!」

 互いの目から火花がぶつかる。音さえ聞こえてきそうなそれは、実質十秒ぐらいのものだったろう。
 アルトリアを睨みつける目の力はまったく弱めぬまま。
 士郎はゆっくりと口を開いた。

「……やっぱり納得できない。できるわけないだろ。そんな説明で」
「………………」
 その言葉を聞いて。
 先にアルトリアの方が睨み合いを止め、嘆息する。
「ここまで言ってわかってもらえないとなると、私にはもう説明の仕様がありません。
 ――失礼します」

 一方的に告げて、背中を向けた。
 二つの意味でためいきをつく。本当に、どうして士郎はわかってくれないのだろう。
 そしてどうすればわかってくれるのだろう。
 嘘をついても諦めず、本当の事で説得しようとしても納得してくれない。
 ならば一体どうすればいい。
 とつ、とつ、と響くアルトリアの足音。それを掻き消して。

「ひとつだけ聞かせてくれ」

 士郎の声だけが、彼女を追いかけてきた。

「お前と一緒にいるときの、今の俺って前と違うか?」

 そんなこと。
 答えは、わかりきっている。

「……いえ、同じです。貴方はずっと、あの頃の通りのシロウでした」

 士郎の態度は変わらない。彼は『アルトリア』も『セイバー』も、ずっと同じ態度で接している。
 だから辛い。士郎は態度で、ずっと『アルトリア』と『セイバー』は同じものだと言っている。
 彼はもしかすると、いやおそらく、このまま永遠に両者を同一視してしまうだろう。
 だとしたら、彼女には。
 彼の前から消える他にどんな手段があるというのか。

 早足にならないよう、努めてゆっくり歩みを進める。今度は士郎も引き止めない。
 胸がズキズキと痛む。それはまるで丘に上がった人魚姫。魚の尾を足へ変えてもらった代償に、歩くたび割れたガラスの上を歩く痛みを科せられた。
 本来ならば得てはいけない幸せと引き換えに、その身は永久とわの痛みを刻む。


 ――――『アルトリア』と『セイバー』は、別の存在ものになれない。
 凛の中でも、イリヤの中でも――――士郎の中でも。
 どれだけ彼女が願っても、もはや両者が違うものとして、ここで存在することは不可能だ。


 王子と結ばれなかった人魚姫には。
 泡となって消え行く運命さだめが待っている。




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