■私たち,チャオと私がこの公園のどこに,どれほどいて,何をしていたのか,私にはまったくのところわずかな記憶も残っていない.どのベンチに座ったのか,どんな対話を交わしたのか?
恋人たちにはもはや,ことばはいらなかったと言ってしまえばそれまでだが,仙台の2月の夜半を戸外で過ごすというのはほとんど正気の沙汰ではなかったろう.私がこのとき,平たい皮紐を編んでくるんだボタン付きの,厚い本皮をバックスキンに仕立てた膝までのコートを着ていたことは確かなのだが.
■ピーターパンを出たときの様子を思い起こすと,チャオは黒いオーバーを着ていたように思われる.ピーターパンには確かクローク代わりにコートを掛けておくフックが入口のあたりに並んでいたと思うのだが,その前でチャオは確かに丈長い黒のオーバーコートを身にまとったように記憶する.チャオは一言で言えば,猫族の女だった.チャオがあのとき,ほとんど黒ずくめのスタイルでいたことを考えると,黒豹のようなという形容も浮かんでくる.少なくとも,黒豹のようにしなやかで敏捷なボディと走るのに適した脚を持っていたことだけは確かだ.
■チャオが「帰る」と言いはじめたので,私は彼女を送ることにした.私は彼女のオーバーコートのポケットに手を入れると滑りよいサテンの裏地越しに彼女の腰を横抱きにした.揺れる彼女の逆らい難い腰骨の跳躍と若々しい皮膚の弾力の記憶はいまも私の掌のうちに鮮明に残っている.チャオの住まいの近くまで来ると,彼女は「ここまでにして」と私を制した.私たちは街灯の裸電球が投じるスポットライトが地面に描く丸い光輪の中に立っていた.
■私は,彼女の眼を見つめながら「今度,いつ会える?」と尋ね.彼女は少し考えてから「来週の今日」と小さく答えた.それは妻が帰ってくる日付だった.「とてもそんなに待てないよ」と私はさえぎり,急速に水かさを増してくる想いにかられて思わず叫んだ.
■「明日また会おうよ」
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