個人的領域 |
よく,「なぜ,馬場研究所という社名にしたのですか?」という質問を受けることがあります.私はプログラミングの世界にとても遅れて入りました.私が横浜の反町にあった工学技術研究所という小さなソフトハウスに入ったのは今からおよそ20年ほど前,30代半ばの頃です.私は若い頃自分の進路を決めるにあたって,科学と文学のどちらを取るべきかでひどく悩みました.結局私はその結論を得られずにうかうかと時を過ごしてしまったのですが,プログラミングという仕事は私の適性に完全にマッチしたものでした.
私は35歳になって始めて自分のなすべきことを発見し,それまでの遅れを取り戻すために猛烈に働きました.会社の椅子の上で眠り,朝最初に出社して来た女子社員に起こされるというのが日常的なパターンでした.その頃は現場に泊り込むということはよくあったのですが,最高で3徹したことがあります.このときは,徹夜明けの電車の中で寝てしまい,目が覚めたときには辺りはもう暗くなっていました.電車に乗ったのは昼の12時頃ですから,京浜東北線の大宮・桜木町間を何時間も往復していたことになります.
馬場研究所という名前はコンピュータを発明したイギリスのバベジの名
前から来ています.(一冊も著書を持たない著作者である馬場英治は私のペンネームです)解析機関と呼ばれるバベジのコンピュータは歯車式の完全に機械的な装置ですが,現在我々が使っているコンピュータの基本的な構成要素のすべてを含んでいます.バベジは結局この装置を完成することができず,彼の弟子が彼の死後完成することになるのですが,私がバベジに共感するのは,彼もまた人生の非常に遅い時期に仕事を始めたというところです.
バベジ(1792-1871)が彼の仕事に取り掛かったのは50代です.日本では伊能忠敬がそうです.彼は50歳を過ぎてから江戸に出て昌平黌に入り,若い学生達と一緒に測量学を基礎から学び直します.若い時期をある種の放浪に費やしたデカルトの仕事も遅く開始されたものです.デカルトの仕事の性質と彼が晩学の人であるということの間にはおそらく深い関連があると私は思っています.つまり,「経験」によってしか解けない種類の問題があるのではないか,と私は考えています.
(1999 中秋節 M.N.)