男はすでに支度を終えていた。
今回のことは、彼女がこの男とこの国に来てからは、初めてのことであった。
こういう時、彼女の心は過去にそうであったように不安に支配され、目の前の男を引き留めたい衝動に駆られる。
しかし、いままでそれができた試しもなかった。
この時ほど、彼女は自分が大人であることが、恨めしく思えることもなかった。
「じゃあ、留守を頼む」
「はい。無事の帰還を祈っています……」
男が扉の前で言うのに彼女は応える。
すこしふるえる彼女の声に気付いた男は、彼女の肩に手を置き、笑顔で言った。
「おいおい。そんな顔するなよ。大丈夫だ。だいたい、俺は今までだってちゃんとおまえの元に返ってきただろ?」
茶目っ気を含んで言う男を見つめながら、しかし彼女の表情は沈んだままだった。
「ええ…信じているわ……。あなたは今まで約束を守ってくれているんですもの…。でも、不安なのよ。たとえ死ななくても、あなたも彼みたいに私の元を去ってしまうんじゃないか、って……」
そう言った彼女は、懸命に涙をこらえながら、耐えられなくなったように男に抱きついた。
その彼女の背に手を回し、きつく抱きしめて男は優しく語りかけた。
「約束する。俺は必ずおまえの元に返ってくる。絶対に一人にはしない…。絶対だ!…だから笑っていてくれ、クレア……。おまえには、明日を見て、笑っていてほしい……」
男の言葉を聞き、さらに彼を抱きしめる腕に力を込めながら、彼女はささやくように言った。
「愛しているわ…ヤング……」
D.26年7月。対話による解決をあきらめたドルファンは、傭兵騎士団ヴァルファバラハリアンを実力でもって排除する意志を硬め、ヴァルファ占領下にあるダナン攻略のための軍を進発させた。
王室会議の決定を受けた軍部は、旗下の各軍に対し訓練の中止並びに侵攻準備を下命、準備の整った騎士団第2連隊と傭兵隊を第1陣としてダナンへと向かわせた。
連隊長カイル=コーツ大佐以下、2個大隊8個中隊を有する第2連隊の戦力は約1600。これにヤング=マジョラム大尉の指揮する傭兵隊の約200が加わり、ドルファンの第一陣の戦力は約1800となる。
さらに、プロキアが周辺諸国からの非難(自国への侵攻の名目をあたえてしまう)を避けるため、ドルファンへの釈明と共に協力を表明。政治的色合いの濃い傭兵団シンラギククルフォンとの契約を結び、プロキア方面よりダナンのヴァルファに圧力をかけた。
南北に同時に敵を構えたヴァルファは、戦力を2分。ダナンを出て、野戦により両方面の敵を迎え撃った。
ドルファン軍を迎え撃つのは、2個八騎軍(ヴァルファ独自の編成隊)でその数1200。先陣をつとめるのは“疾風”の異名をとる八騎将の一人、セイル=ネクセラリアであった。
現在はただの荒野となり果てている、旧軍事演習場イリハ。そこではかつての役割とは違った風景が繰り広げられていた。演習ではなく、実戦が行われているのだった。
ラッパの音が鳴り響く。
一瞬の間が空き、喊声が上がった。
ドルファン軍第2大隊の第2中隊が突撃を開始したのだ。
完全な騎兵中隊である第2中隊に所属する約100騎の騎兵は、前面に展開するヴァルファの弓兵隊を粉砕すべく躍進する。かつて“陸戦の雄”と称えられたドルファン騎兵隊を彷彿させる勇猛果敢な姿は、まさに騎士団はかくあるべきをあらわすかのようだった。
彼らの前面に変化が起こる。
整然と並ぶ弓兵隊。その列に、等間隔の隙間ができた。弓兵隊のすぐ後方に待機していた歩兵部隊が前面に出て広がる。その間に、弓兵隊が1斉射行った。
軽い弓なりの弾道を描いた無数の矢は、突撃中の第2中隊に降り注ぐ。しかし彼らは、なにもなかったかのように突撃を続ける。彼らは重装甲に守られていたし、高速移動中の騎兵に対してはどうしても命中率が下がる。なにより彼らは突撃中であった。一度突撃に入った騎兵はちょっとやそっとでは止まれない。
残り距離30。前面に出てきている歩兵隊はかがみ込んでいた。
中隊長が蛮声をあげる。王国万歳!
その声とほぼ同時に、かがみ込んでいた歩兵隊が、長大な槍を起こした。
目の前の風景を認識できず、第2中隊長の思考は停止した。
完璧な槍襖。
その中に、第2中隊は突入した。
あたりは人と馬の発する悲鳴に満ちていった。
「第2中隊壊乱!中隊長戦死!」
傭兵隊にも伝令が届いた。
今回の戦闘で、傭兵隊は総予備隊として騎士団の後方に待機していた。
「結局、やつらは訓練からも、なにも学んでいなかった訳か……」
ヤングは小さくうめいた。
実際、第2中隊は傭兵隊との対抗戦の時と似たような状況に陥っていた。いや、それよりも遙かにひどい状況だった。
まさに虐殺。
ヴァルファバラハリアンの手によって、全く抵抗のできないドルファン騎士団第2連隊第2大隊第2中隊は、この世から消滅しようとしていた。
そして、騎士団第2大隊の他の部隊にも動揺が広がっていた。
彼らの信ずるもの、それが最悪の形でうち砕かれたのだ。無理もないところではあった。
「まずいですな。こうなっては、敵が攻勢に出てきたらそのまま敗走しかねませぬ」
ヤングの横にいたモリヤスが、戦言葉で言った。
モリヤスの言葉にヤングはうなずいた。
「そうだ。士気が下がっている。敵の攻撃に1撃も耐えられなさそうなほどにな」
周囲にいる傭兵達の表情も硬い。
もしこのまま第2大隊が敗走に移ったら、彼らも巻き込まれてしまう。
そうなっては、戦慣れした傭兵といえど手の打ちようがなかった。そのまま追撃に移った敵に騎士団といっしょくたに押しつぶされてしまう。なんとかせねばならなかった。
「うごくぞ」
ヤングは決断した。周りの傭兵隊各指揮官に伝える。
「ひとまず前面の騎士団を迂回して、敵の斜め横に出て攻撃を行う。歩兵隊、接敵前進準備。俺が指揮する。ベック、弓兵隊は任せた。騎士団の後方両脇に位置しろ。騎士団が逃げ初めても巻き込まれないような位置にな。展開したあと、前進してきた部隊と騎士団が接触したら、騎士団前面に向けて射撃しろ。なに、多少は味方に当たってもかまわん」
指示を聞いた指揮官達が、あわただしく動き始める。ヤングは、最後にモリヤスに顔を向けて言った。
「トザワ。おまえは騎兵隊を頼む。敵の側面をついてくれ。後は任せる、おまえの方が上手だろうからな」
「承知」
応えると同時にモリヤスは馬首をかえし、騎兵小隊の方に駆けていった。
その後ろ姿を頼もしそうに見た後、ヤングは周りを見渡して大声で言った。
「さぁゴロツキども準備はいいか!頼りない騎士どもに、傭兵の力を見せつけてやる絶好の機会だ。ぞんぶんにやれ。なぁに、ヴァルファバラハリアンだろうとなんだろうと俺達の敵じゃあない。何しろこっちにはあの“鬼”がついているんだからな!!」
ヤング率いる傭兵隊が動き始めた頃、ヴァルファ側においても動きがおこっていた。
「フンっ。これが“陸戦の雄”と謳われたドルファン騎士団か?たわいもない」
ヴァルファバラハリアン八騎将の一人、“疾風”のネクセラリアは心底馬鹿にしたような口調で言った。
脇に控えている彼の副官が口を開く。
「たしかにあの騎兵突撃の姿は見事でしたが…。しょせん、古代の遺物でしかないわけですな」
副官の言葉におもしろくなさそうにしながら、ネクセラリアは続けた。
「そのとおりだな…。しかし、全くおもしろくない!これでは何のために先鋒を願い出たのかわからんではないか!?
……まぁいい。ここはひとまず奴らを血祭りに上げて、王都への道を確保しておくとするか。全部隊、敵大隊主力にむけて前進!俺も出るぞ」
「はっ!」
ネクセラリアの指示にしたがい、第2中隊を殲滅したヴァルファの歩兵隊は、前面に展開しているドルファン第2大隊に向けて前進を開始。騎兵隊は側面に回り込むように機動し始めた。
第2大隊は歩兵中心の第3、第4中隊を全面に展開。第1中隊を予備隊として後方へ回した。
この時になって、第2大隊長の耳に傭兵隊の動きが伝わる。
しかし、この時点になっても、第2大隊長は傭兵隊を用いるつもりはなかった。門閥意識の強い彼(エリータス家の係累だった)は、初めから傭兵隊を用いようなどとは思っていなかったのだ。奴らの力を借りるなど恥、そう思っていた。
結局、傭兵隊を野放しにすることにした第2大隊長が意識を戦闘に集中し始めた頃、両軍の歩兵隊が接触、戦闘を開始した。
<あとがき>
読んでくださった皆様、ありがとうございます。サキモリです。
今回、『こころのちから』3話「イリハ」をお送りします。
はじめは、3話をすべて一つでお送りする予定でいましたが、気づくとそのままではだらだらと長く感じたので、三つに分けることにしました。
次は、傭兵隊が戦闘に介入する部分となります。
お楽しみください。