クラスメイトと、手の見せあいっこをしたことがある。
触れたら傷のつきそうな白い手のひらの中で、私の手だけが浮いていた。がたついた机の上に並べるには似合いの、荒れた手のひら。
いくばくかの沈黙の後、ひとりが、空気をかきまぜるように言う。
「──あ、あのさ!ソフィアって、家事全部やってるんだって?」
「…ええ」
みんなの視線。私は頷き、それだけではおかしいかもしれない、と喉から声を絞り出す。
「…あ、でもその、全然大したことじゃ…」
「へえ、すごーいっ!今度料理教えてよっ」
「あんたじゃ上達しないって」
「失礼なっ。あ、料理っていえば、あの子の彼がさあ…」
女の子たちの空気が、扉のように目の前で閉じる。私は、楽しげに動く可愛らしい指たちを見ていた。曖昧な笑みを浮かべたまま。
「──ソフィア!」
叩きつける声。
左腕を勢いよく引っぱられる。え、と思う間もなく、顔の脇を何かが擦り抜けた。
背後から悲鳴と、葉擦れの音。
「逃がしたか」
低く響く声が左側から降ってくる。喉からようやく小さな悲鳴が洩れた。彼は慌てたように手を離す。
「…あ、すまん」
マクラウドは、どうしていいか分からない、と言いたげにこちらを見ていた。彼は時々、物の分からない子供みたいな目をする。
「謝る必要はないわ」
見渡すかぎりの緑の中。一歩手前で私をまっすぐに睨んでいるのは、同い年のライズという少女だ。琥珀色の瞳を際立たせるような愛らしい鼻と口元。倒れそうな程に透き通った肌。同じように大人しくてもあんなに可愛かったらな、と廊下で擦れ違った時には思った。思ったのだけれど…。
今、こちらを見ている目線は刺すように鋭い。
まばたきした瞬間に、殺されるかもしれない…。
「ソフィア」
「…は、はい!」
「ここは町内ではないわ。いくら注意してもしすぎるということはない場所よ。覚えておくといい」
「…ごめんなさい…」
「謝れと言っている訳じゃないの…」
ライズはきびすを返す。
歩を進めながら、吐き捨てた。
「ただ、次は死ぬわよ」
ごめんなさい、と言いかけて歯をくいしばる。
王都オルカディアから、まだそれほど離れてはいないパルメという村。地図の上では指3本分しかないこの道のりで、すでに10回は襲撃を受けていた。
モンスターと呼ばれる、いびつな者達。
殺さなくてはいけない。
マクラウド…オルカディアで1、2を争う剣の達人は、何故か同行者に私を選んだ。そして言った。
敵と会ったら殺せ。でないと殺される。
私は傍らに立つ彼を見上げる。目線で促され歩き出す。砂より砂利の多い地面を踏むと、足の裏が悲鳴を上げた。
──そろそろ、限界かもしれない…。
「…何してるの?」
「…足か。ライズ、ちょっと待ってやってくれないか」
彼女は少し苛立った様子で戻ってくる。
「痛むの?」
「…少し…」
激痛という訳ではなかったが、土を踏むと染み込むような痛みが足の裏から全体に広がってくる。しゃがみこみたくなる気持ちを押さえつけ、言葉を絞り出す。
「大丈夫です…」
「村まで後2キロ程よ。…持つ?」
私は頷いた。マクラウドが手を差し出す。
「荷物を」
「私が持つわ。マクラウド、あなたは手がすいていたほうがいい」
言うなり背中のリュックを外しにかかる。
「すいませ…」
ライズの手が止まった。後ろを振り返り、外した荷物を脇の茂みに投げる。
マクラウドが私の前に出た。広い背中が視界を覆う。
「──ライズ、右だ。左は俺が一撃でやる」
「了解」
短いやりとりが終わるや否や、ライズは敵に切り込んでいった。私は息を呑む。なんのモンスターか、これは私にもわかった。
──コロボックル!
愛らしいおとぎばなしの妖精が、醜く顔を歪ませて襲ってくる。レイピアの切っ先が首の付け根に突き刺さる。悲鳴。妖精の姿が跳ね上がるようにたわんだ。
消える。
…何事もなかったかのように。
仲間を失った妖精は後すざる。その肩口から首筋にかけて、マクラウドが剣をたたき込む。驚いたふうに目を見開き、身がちぎれ、空間へと吸い込まれていく。
大きく見開かれた目。
憎しみより、驚きと恐怖が勝った一瞬の目。
私は身じろぎもできずにそれを見ていた。
宿屋の裏の水場で足を浸す。先が割れた爪から血が滲んで流れていく。じんと熱い足から、徐々に感覚が戻ってくる。
陽はほとんど傾いていた。牧草と家畜の匂いが、秋の風にまじって頬をくすぐる。平和だな、と思った。
平和だな。
見上げた空に、影が降りた。
「…テーピングのやり方は、わかるかしら」
「教えてください…」
さらに見上げると、ライズの顔がようやく視界に入る。彼女は不思議なものでも見たかのように眉をひそめた。
「何してるの?」
ああ、ここは星がよく見える…。
何を言えばいいのかわからなかった。強いんですね、と言うのも、怪我の状態を口にするのも、他のどんな世間話も喉元に引っかかって出てこない。
言えば、泣き言になってしまいそうだ。
それは、この場に一番ふさわしくないことのように思えた。
「…ライズさん」
「何」
静かな、何の感情も含まれていない声。
視界に涙が滲んだ。私は空をみた。絶対にこぼれおちないように。風が髪を撫でてゆく。つんと芝草の匂いがした。
「靴の修繕の仕方も教えてもらえますか。私、一回で覚えます。防御も、回復も…その、攻撃も」
「努力するのは結構なことだけど、一度には無理よ」
「それでもいいです。できるだけ…やってみます」
風がもう一度吹いて、体全体を撫でていく。
私は拳を握り締めながら、彼女の返答を待った。
後書き
外伝です。いやこれが本当の第1章なんですが、ライズへの偏った愛と、普通のかわゆいお嬢さんが異様に書きにくいというハンデ(?)のために没にしました。
でもモンスターとの戦闘シーンがこれにしか出てこないし、私的にはお気に入り(*^^*)なので大復活です。
次は予告どおり「第5章 恋」です。