馬に乗った二人はシアターの前まで来た。
無銘がソフィアを抱きかかえるように馬から降りた。そして無銘はおもむろに馬の尻を蹴飛ばした。ソフィアは驚いて無銘に非難の目を向けようとしたが、馬は前足を上げて大きく嘶くと、一目散に走り去ってしまった。無銘は手を挙げて見送っている。
「じゃーねー、どうもありがとーねー」
「無銘さん、今のは?」
「あ、あれね、契約終了ってこと。牧場の人が用が済んだら馬の尻を蹴飛ばせって。そうすると元の牧場に帰って行くんだって」
「へぇ…便利なものですね」
「そうだね…。と、じゃ、入ろうか」
「はい!」
二人は手を繋ぎながら、劇場に入って行った。
ホールの中には当然のことながら人はいない。人気の無く、そして物音一つしない様は二人にどこかしら現実感を失わせてしまう。世界に人は二人しかいないような錯覚すら与える。
「静かだね…」
「ええ…」
無銘はほんの少しだけソフィアの方へ体を近付けた。顔つきも今までの飄々としたものではなく、どこか強張っている。そのまま歩き続け、劇場のかぶりつき(一番前の列の席)まで来た。そしてソフィアが席に座り、それに続いて無銘もその隣に座った。
「そういえばさぁ、なあ、いつ頃俺の正体バレたんだ?」
「父に殴られそうになった時、かばってくれたでしょ。その時の大声と…」
そういってソフィアは楽しそうに微笑む。
「その後のあの教壇を叩いた時ですね。私をかばった時のあの手には見覚えがありました。そのときはまだ貴方だと言う発想はなかったけど、その後のあの大声には貴方の地がほんの少し出てました。それまではうまく神父さまらしい声色・調子を作っていましたけど」
「むう…」
「そしてあの教壇を叩いた時、私はハハーンと思いましたね。こんな面白い事をするのは…」
「俺を置いて他にはいないってか。ったく全く大したもんだな」
そういって少し膨れる無銘。それに対してソフィアはちょっと淋しそうに答えた。
「それくらいの観察眼はありますよ。これでも女優の元、タマゴなんですよ」
無銘はぐっと詰まった。触れてはいけないものに触れてしまったかのような罪悪感に襲われた。しかしソフィアは優しく切り出す。
「そんなに気にしてはいけませんよ。あのテロ事件は貴方のせいなんかじゃ無いんですから」
「…ああ」
「それにね…」
そういってソフィアは頬を赤く染めながら話し始めた。
「貴方はできるだけの事をして下さったではないですか?毎週毎週、私の病室へ来てくれて私をずっと…見つめてくれて」
「そうだったな…」
「もう女優になれないと悲観にくれる私を励ましてくれたのは貴方です。そして、その後…」
そう言ってソフィアは目を閉じて無銘の肩に自分の頭を預けた。
「その後で私に言ってくれたじゃないですか。私の事を恋人だって」
ここでの話は無銘がアンにソフィアとの関係を質問された時のことであろう。
「………」
「私、本当に信じられなかったです」
無銘もまた自分の頭を優しくソフィアの頭にぶつけた。
「俺だって、あの時は冷たく否定されなくてほんとに良かった、と思っているよ」
「そうですよね、告白には勇気が要りますもんね」
そう言って、ソフィアは目を開けた。
「私、貴方に言っておきたい事があるんです」
そう言ってソフィアはゆっくりと語り出した。
「私、小さい頃から人と争ったり、人を傷付けたりすることが嫌いでした。それは優しいなんて聞こえの良いものじゃないんです。私は何と言ったらいいのか…気が弱いとでも言うのか、我が弱いとでも言うのか、とにかく自分てものが無かったんです」
ソフィアの表情が徐々に翳ってきている。
「誰かにひどい事を言われたり、いわれの無い暴力を受けても、その事実が無かったかのように振る舞って、自分を納得させて、自分を誤魔化して生きてきたんです。
私は流されるように生きていました。みんなに自分の存在を否定されないように、みんなに嫌われないように生きてきたんです。
私はそんな自分の事が嫌いでした。違う自分になりたい、もっと自分に自信を持って生きてみたい。いつもそう思っていました。
そんな私に舞台はうってつけでした。不純な動機だとは思います。でも、何か違う誰か、それも自信に満ち溢れている誰かを演じている時、嫌いな自分を忘れている事ができたんです。
でも当然、それは虚構の出来事で、終わってしまえば後に残るのはひ弱い自分がいる現実でした」
そう言って、ソフィアはゆっくりとため息を吐いた。翳りの表情はますます強くなっていた。その表情は無銘をどうしようもない気にさせた。ほんの数秒の沈黙の後、無銘が何かを言いかけようとした時、ちょうどソフィアが無銘の方へ向き直った。そしてその表情は今までの曇りのものではなく、どこまでも澄んでいた。そして優しく言葉を紡ぎ出した。
「でも今は…貴方のために強くなりたい。そして、そんな現実が好きです」
そう言って、彼女はゆっくりと顔を無銘の方へ近付け、目を閉じた。無銘にもその行為の意味は充分すぎるほど分かっている。無銘はソフィアの頬に手を当て、唇を重ねた。
触れ合った唇から伝わってくるお互いの温もり。不意に無銘の口から鳴咽が漏れた。よく見ると、無銘の眼から一筋の線がつたって行った。
「おかしいよな、こんな時に俺が泣いちまうなんて…」
ソフィアは何も答えずに優しくその涙を指でぬぐう。無銘はさらにぼろぼろと涙をこぼした。とめどくもなく流れて行った。ソフィアは無銘の首に手を回して自分の胸に無銘の顔を優しく押し当てた。無銘は最初こそ驚いたものの(そしてどこか邪な考えを抱いたものの)、次第に体全体に満ちてくる安らぎに心地良くなって何も考えられなくなった。
ソフィアは一生懸命無銘を抱きしめようとしている。優しい微笑みを持って無銘を受け止めようとしている。無銘を癒してあげるのは自分だと言わんばかりに。
無銘も全てをソフィアに預けている。その表情は寝顔とも受け取れるほど安らかである。無銘はソフィアの乳房を通して伝わってくる心臓の鼓動の音をどこか懐かしく思った。
ここに人間がいた。それは、頼り、頼られる二人の男と女だった。お互いの中にお互いの存在が確かに在る二人だった。
しばらくして無銘は顔をソフィアの胸から離した。しばらくお互いを見つめあった後、ソフィアが席を立ち、舞台の方へ歩き出した。追いかけようとする無銘を止める。
「貴方はこのステージのお客様です。そこに座って見ていて下さい」
そう言って、ソフィアは舞台へ上がって行った。
「このステージに立つ事を小さい頃から夢見ていました。貴方に会う前も貴方に会った後もやっぱりここに立つ事を夢見ていました。
でも、それは叶わぬ夢で終わりました。喉をやられた私は満足に歌う事すらできません。
でもだからこそ、今、声を振り絞って歌いたいです。夢を追い続けた今までの自分に対して、そして私たち二人の明日のために」
ソフィアは深呼吸を繰り返し、そして唄い始めた。喉が悪いとは思えないほど、ホールにソフィアの歌声が響いていく。
唄を聴きながら、無銘は夢想した。ソフィアと自分の思い出について夢想した。
波止場でチンピラから助け出した時のはにかんだ笑顔。採掘現場で偶然再会した時みるみる顔が赤くなると思いきや、ダッシュでその場を立ち去られたこと。デートをロバートに邪魔された時にポツリと漏らした一言に怒ってビンタした時の怒りに満ちた顔。その後、誕生日にプレゼントを渡した時に笑顔で受け取ってくれた時、ほんとに良かったと思ったこと…
様々な思い出が脳裏に駆け巡っていく。
そして、ソフィアが目撃した、あの猫を埋葬した時の記憶がよみがえる。
……まさかあの光景を見られていたとはなぁ……
彼は傭兵であり、戦場が仕事場であり、敵を殺す事が仕事だった。そこには正義といった概念や、悲しみといった感情は無縁であり、また何の意味を持たなかった。ただひたすらに敵を巧く殺し、生き延びる事が求められたのだ。それが戦場であり、そうでない者は死ぬだけだった。実際彼ももはや数え切れないくらい敵兵士を殺してきた。それを通して命という物がいかに儚いか、良く分かっていた。また情念や思念などもいかに虚ろい易いものであるか、という事も良く分かっていた。
それでも、自分の不遇の環境を恨まず、夢に向かって疾走しているソフィアの姿は無銘にとって輝いて映った。いつの間にか彼は彼女の一挙一動に注意を寄せていた。そして自分を慕ってくれる、癒してくれる彼女の気持ちを、また彼女を想う自分の気持ちを大切に思った。それらは孤独を人生の一部と悲しく決め付けた無銘の心の壁を徐々に溶かしていった。
しかし無銘は傭兵である自分がソフィアを愛する資格があるのかどうか真剣に悩んだ。ソフィアを奪い去るために、神父に変装し、4500万ゴートという大金を用意してまで計画した今回の結婚騒動だったが、本当に最後の最後の段階まで彼はその実行の是非を己に問いただしていた。
…このまま結婚式が進むことがソフィアの為ではないか…そんな危険な発想が頭をよぎる。
だがソフィアはどこまでも彼の側にいる事を選んだ。結婚式場でのあれほどのソフィアの言動は完全に無銘の思惑を超えていた。無銘の覚悟はあの時決まったといっても過言ではなかった。
ウェディング・ラプソディを計画したのは無銘だが、それを実行した立役者は紛れもなくソフィアであったのだ。
唄は終わりに差し掛かった。
ぱちぱちぱち…
無銘は拍手を送った。そして立ち上がり、ステージの上に上がった。
無銘はソフィアを引き寄せ、もう一度キスをした。
お互いを必要とし合える相手。お互いを癒すことのできる相手。お互いの弱さをそのまま肯定し会える相手。
そんな相手はこの世界に何人いるだろうか。二人はそんな相手に出会った運命を心の底から感謝した。
これからやってくるであろう障害、苦しさ、辛さ。でも、二人一緒ならそれも悪くない。
「愛してる」
無銘は呟いた。
「私も、です」
ソフィアも微笑みながら返した。
期せずして二人は歩き出した。シアターの出入り口より始まる、二人で歩む道程に向かって。
手と手を握りながら。
この物語は二人の結ばれた瞬間を語ったに過ぎない。この後二人はさまざまな喜び、楽しみ、そして怒りと悲しみを経験していく事になる。それらの経験に癒され、時には傷つき、涙を流そうとも、二人はどこまでも長い旅路を共に歩んでいく事になる。
しかし、それはまた別の物語である。