ドルファン歴29年4月上旬
教会は、あまり好きなところではなくなってしまった。
それでも、祈ることで何かが変わるのなら…。
信仰、それはソフィアはあまり強いものではなかったけれど。
東洋人の傭兵さんが教えてくれた。
「辛い時は、祈るんだ」
人から悪く思われているように思ったり、誰かに嫌われてるのではないかと思ったり、
どこかで誰かがが怒っているのではないかと思った時は、祈るのが一番だと。
東洋人のあの人は、ここで何に対して祈っていたんだろう?
東洋の国の神様も、ここに降りてきてくれたのだろうか。
祈ることはどこでも出来る。でも、ここで祈るのは、やっぱり違う。
ソフィアもそう思っている。
教会の敷地に入ると、フラワーガーデンとは違う落ち着いた草花たちが出迎えてくれた。
ついこの前の結婚式の時には、まだこの花たちは咲いていなかった。
季節は移り行く。止まることはない。
あの花壇なんか、あの時まだ土だけだったような気がするのに…。
土に落とした種が芽を出し、葉を開き、つぼみをつけて。
どんな花を咲かせるのだろう?
そんな楽しみの一つも持てればいいのだろうけれど。
後ろ向きな自分、下を向いてしまう自分、悲しみに溺れている自分。
私はこれから、何を楽しみに生きていくのだろう…?
どうしてこうなったのか、何故こうなったのか、それを言っても仕方ないけれど。
教会。
何かに私が裏切られた場所。
神に仕える人も平気でウソをつく。
老神父を恨むのは筋違いだけど、あまり気持ち良い話じゃない。
あの日…。
あの人が旅立つ日の前日、私はここでジョアンと結婚式をあげた。
結婚式の時だけいた老神父は、どこの誰だったんだろう…。
『新婦、ソフィア・ロベリンゲ。汝は夫ジョアン・エリータスを生涯愛すると、ここに誓うか?』
覚悟を決めていたと思っていたのに、結婚式という儀式の中で、その誓いの言葉の重さが、
閉じられた口を開けさせなかった。
『…………』
愛していない人を愛してると嘘をついて、神は許してくれるのだろうか?
『オ、オホン…、新婦、ソフィア・ロベリンゲ?』
困った顔の老神父、でも、申し訳なさは出てこなかった。
──言えない。
弱い自分が哀しかった。
──言いたくない。
こうなることを望んではいなかったけど、自分で選んだ道なのに。
選んだ? 違う、親同士が決めたこと。
悲しくて、悔しくて、自分ではどうしようもなくて…。
──助けて…。
あの人の顔が浮かんだ。
結婚なんかしたくないのに…。
ジョアンを愛してはいないのに。
静かな重苦しい沈黙の中で、老神父が口を開いた。
『みなさま…』
教会内を見渡し、老神父は穏やかな声で続けた。
『新婦、ソフィア・ロベリンゲは、ひどく緊張されておられます』
隣でジョアンがうんうんと頷いているのがわかる。
『みなさまには聞こえないほどの小さな声でしたが、私と、そして主に誓いの言葉をお渡しされました』
はっと顔をあげた、でも、言葉は何も出てこなかった…。
『ここに、二人を夫婦と認めます』
痛かった。
どこかに、道があったような気がして。
あの人が…、私を助けてくれる、そんな夢みたいなことを、どこかで思っていた。
そう思っている自分が、悲しかった。
結局、自分じゃ何も変われない。そんな自分が、嫌だった。
──私に拒否権はない。
それなのに、何を抵抗しているのだろう…。
この先の未来の中で、今していることを無駄だったと振り返られる時がくるのだろうか?
何をすれば良いか、何に向かえばいいのか、見えてこない。
「だから…、祈るしかない」
声に出して言ってみる。
世の中には、祈ることも出来ない人もいるのだ。
祈ることが出来るだけ、まだ救いがあるかもしれない。
“すがるもの”があるのだ。
教会の入り口ですれ違った女性が、ソフィアに向かって振り向いて声をかけた。
「あら…? ロベリンゲさんの、お嬢さん?」
はっと下を向いていた顔をあげて、声の主に振り返る。
声をかけた女性は、「やっぱり」という顔をして、ソフィアの方へ歩み寄った。
「ダメよ、そんな暗い顔をしてちゃ。可愛い顔が台無しじゃない」
優しく、彼女はソフィアに話しかけた。
落ち着いた雰囲気を持った綺麗な大人の女性。
嫌みを感じさせない、温かい優しさが、心地良かった。
「すみません…」
でも、どうしていいかわからなくて。
「何があったかは知らないけれど、下を向いていてはダメよ」
今まであの人以外自分の回りにはいなかった、包み込むような優しさを感じる。
「永遠に下を向いていることなんて、出来ないから」
何も言えないソフィアに、彼女は笑って話しかける。
力づけるように。
「今は、辛いことがあるのかもしれないけれど。思うままに、祈っていらっしゃい」
祈りが救ってくれる、そう断言はされなかったけれど。
そうすることは間違いではないと、言われたような気がした。
「ごめんなさい、変に話しかけちゃって。知ってる顔がうつむいていたから、ついおせっかいになっちゃって…。ごめんなさいね」
お説教みたいな物言いを謝るように、年下のソフィアに彼女は軽く頭を下げた。
「いえ、いいんです…」
「邪魔してごめんなさい。じゃ、私、仕事があるので、これで…」
ソフィアは気付いたように、彼女に話しかけた。
「あ、あの…、バーテンさん」
呼ばれて、彼女は優しく微笑んで答える。
「なにかしら?」
「あの…。お父さん、飲み過ぎていませんか…?」
飲み過ぎていないかも心配だったけれど、彼女の職場に入り浸っている父親が、彼女に迷惑をかけていないかも心配だった。
「…最近は、そうでもないわよ」
一呼吸置いてからの解答に少し違和感を感じたけれど、疑うことは彼女に申し訳ない。
飲み過ぎの度合いというものもあるかもしれない。
「すみません、バーテンさん…」
父親を迎えに行った時のことを思い出すと、どうしても申し訳なく思ってしまう。
話していてどうしてもうつむきがちなソフィアに、彼女は困ったような顔をした。
「私、クレアよ。クレア・マジョラム」
そういえば、ソフィアは酒場のバーテンさんの名前を知らなかった。
「ソフィア、です…」
姓は言わなかった。
「何かあったらお店にいらっしゃい。私で良かったら話し相手くらいにはなれるわよ」
「あ…」
でも、父親がいるかもしれない酒場には…。
「昼間はそんなにガラは悪くないし、お酒ばかり取り扱ってはいないわ♪」
営業というのもあるかもしれないけれど、クレアの声はとても優しかった。
「あなたくらいの年の子だって、来てるんだから」
クレアの言葉は、励ますように、温かい。
「…はい」
甘えたい、そんな気持ちがソフィアを頷かせていた。
「すみません、お仕事があるのに…。呼び止めてしまって」
「気にしないで、ソフィア」
おせっかいと言っていた気遣いが、ソフィアには嬉しかったかもしれない。
「それじゃあね、ソフィア」
「はい、クレアさん…」
手を振って別れた。
優しさの奥にある、目に見えない強さを持っているような、そんな気がした。
「クレアさんは…、何を祈っていたんだろう…?」
ソフィアはクレアが見えなくなるまで、その背中を見つめていた。